改まった文

拝啓 仲秋の候、貴社ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
日頃より格別のご高配を賜り、心より御礼申し上げます。
平素より賜っておりますご支援に感謝申し上げるとともに、今後とも変わらぬご厚誼のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。
末筆ながら、皆様のご健康とご発展をお祈り申し上げます。
敬具
こういう文章って、なんでこう書くんでしょうか?
というのも、現代人になじみ深いとは言い難く、若い人なんかは調べなければ意味も分からないような文章じゃないでしょうか?
古語や古典が好きな人達だけが理解できる、ニッチなカルチャーにすればいいものを、なぜかこういった古い言い回しは「改まった文章」として、丁寧とされています。
丁寧に改まるということ自体はとても大切な守るべき日本の文化だと思います。
また、普段使っている言葉よりももっと丁寧な言葉で改まるというのも理解できます。
ただ、それが普段使うことのない言い回しになるのは違うんじゃないかと。
仲秋の候、貴社ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
じゃなくて
秋の深まりを感じる今日このごろ、貴社がますます順調に発展されていることをうれしく思います。
このくらいの文でも十分じゃないでしょうか?
今はこれくらいでも許容されているとかそういう話ではなく、最も敬意のある表現は上の方、ということに違和感を覚えるのです。
日本の敬語や手紙表現の出発点って、衝突を避けるために人と人との「間」を作り出すところにあるみたいです。
直接的な言い方を避け、相手を立てて、自分を下げることで、一定の距離感を保って衝突しない、という工夫だったようです。
それが現代では、形式が先行してこの形式を守れないと失礼、格が低い、上品でない。などとされています。
先ほどの「拝啓」「仲秋の候」のような手紙表現って、幕末~明治時代ごろに使い始められた言葉です。
徐々に変化、進化するのも日本語の面白い所だと思うので、150年以上経過した今こそ手紙表現も改めてみてはどうでしょう?
というか、Eメールの略式と正式版など、デジタルマナーもさすがにそろそろ定めてもいいんじゃないでしょうか?
こういうのって誰が制定するの、、、?
答えは「誰でもない」です。
マナー講師でも、県でも、国でもなく、誰が制定するものでもありません。
ただ、誰が制定するでもなく、心を伝える美しいものだった文章が、想いよりも礼儀や社会的地位を儀式的に伝える記号化されたルールになってしまいました。
そして学校教育や文例集によって「手紙はこう書くもの」というモデルが固定化されてしまいました。
更には上下関係などの社会構造によって、社会通念でモデルの固定化がより強固になって、変化が少ない変わった文化が出来上がってしまいました。
何をそんなに熱くなってるのか、私にはわからないという人へ一言で。
「古い日本語=格式高い」という認識自体がおかしいんじゃないか?
ということが言いたいんです。
手紙に使われる古い日本語が格式高いということにも疑問を感じますし、メールに使われる文章、またはメールそのものが格が落ちるというのも腑に落ちません。
この仕組みはEメールが登場してから半世紀以上が経過してもなお、変わらずにいます。
現代の日本に標準を決める「権威」がなくなった証拠でもあるかもしれません。
マナー講師、ビジネス本、企業の上司、政治家、誰もがある程度それらしいことを言っていながら、誰もがある程度間違っている。
そんな不安定な状態なので、従いきれない、標準になりきらない。
もういっそのこと、常用漢字のように、デジタル書簡として内閣が告示してもいいんじゃない?
署名は必ずつけましょう。とか、一行目には相手先とお名前を入力しましょうとか。
学校教育でも、手紙の書き方より先にメールの打ち方やネットリテラシー、SNSの防衛方法等を教えた方がいいと思います。
その中でも、日本の文化「心を伝える」、「季節を愉しむ」というところはしっかり残して伝え続けてほしいところです。
と、かなり人任せなことばかり書いたブログになってしまいましたね。
じゃあお前はどうすんだ。ということですが、私はラインスタンプを使えるようになりたいです。
OK、りょうかーい!
って、打っちゃうんですよね。打った後におすすめのスタンプが表示されて、「あーまた使えなかった」ってなります。
私が一番、全然新しいことに対応しきれてない、、、